NHKの2023年後期連続テレビ小説:朝ドラ「ブギウギ」タナケンこと棚橋健二のモデル喜劇王榎本健一と笠置シズ子との映画について調べてみました。
日本のエンターテインメント界に名を刻んだ榎本健一と笠置シズ子。
今回は、NHKの2023年後期連続テレビ小説:朝ドラ「ブギウギ」に登場する喜劇王:棚橋健二のモデルになった榎本健一について紹介します。
また、榎本健一と笠置シズ子が出演した映画
- エノケンのびっくりしゃっくり時代
- 歌うエノケン捕物帖
- エノケン・笠置のお染久松
についても紹介します。
朝ドラ「ブギウギ」タナケンこと棚橋健二のモデルになった榎本健一について知ってもらえると嬉しです。
ブギウギ主題歌ハッピー☆ブギは↓↓
ブギウギ「タナケン」モデル喜劇王榎本健一とは?
画像引用元:楽天市場
榎本健一
生年月日:1904年10月11日
没年月日:1970年1月7日(65歳没)
出生地:東京府東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)
活動期間:1922年 – 1970年
榎本健一(1904年10月11日 – 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、そしてコメディアンでした。
初めて浅草を拠点に活動し、エノケンという愛称で全国的に知られるようになりました。
「日本の喜劇王」とも称され、第二次世界大戦期前後の日本で国民的な喜劇俳優として活躍しました。
東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれ、幼少期に母を亡くしました。その後、祖母に引き取られましたが、祖母もすぐに亡くなりました。
その後は父親の元で育てられましたが、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばありました。
浅草オペラ時代
浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に弟子入りし、浅草・金竜館で初舞台を踏みました。その後、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』でデビューしました。
関東大震災後、浅草が壊滅的な被害を受けた際には京都嵐山で活動写真の撮影所があり、そこで喜劇的な寸劇を披露。この時のエピソードが彼の喜劇役者としての原点となりました。
エノケン・ロッパの時代
画像引用元:楽天市場
エノケンの「動き」の激しさは伝説的であり、その演技によって松竹に引き抜かれ、浅草の松竹座での喜劇公演が成功裏に展開されました。榎本のエノケン一座は国民的な喜劇俳優としての地位を確立し、彼らの舞台は多くのファンに愛されました
喜劇界の重鎮
画像引用元:楽天市場
彼の映画は、日中戦争が激化し、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年まで、ほぼ年に3〜4本制作されました。
また、ポリドール専属の歌手となり、多くの曲を吹き込みました。その中には、『洒落男』『私の青空』『月光価千金』『エノケンのダイナ』など、既に他の歌手の歌唱でヒットしていた和製ジャズの流行歌を、自分のキャラクターに合わせてカバーし、ヒットさせました。
戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務め、有楽座での舞台や映画でヒットを飛ばしました。彼らのコンビは喜劇の新しい時代を築き上げ、多くの名作を生み出しました。しかし、榎本健一は病魔に苦しみながらも舞台や映画で精力的に活動しました。
晩年は怪我の悪化やテレビの台頭により舞台活動が減少しましたが、テレビでの活躍が増えました。しかし、1970年に肝硬変により65歳でこの世を去りました。彼の最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」でした。
榎本健一は、その才能とキャラクターで、日本のエンターテイメント界に大きな影響を与え、多くの人々に愛されました。彼の業績は、今日でも多くの人々に語り継がれています。
ブギウギ「タナケン」モデル喜劇王榎本健一と笠置シズ子の映画:エノケンのびっくりしゃっくり時代
画像引用元:楽天市場
この作品は、エノケンがチャップリンを思わせる町の浮浪者に扮したコメディです。
浮浪者の健太は社会的に立場を失い、ある日、街の楽団が楽譜を販売しながら熱心に歌を奏でていました。その中で特に人気のあるのが歌ちゃんで、健太も多くの人々と一緒に聴いていました。
その時、健太の前にいる紳士がポケットから財布を盗もうとしているのを見て、サブ公が警戒していたので、健太はその紳士に注意を促しました。しかし、逆にスリと間違われ、激しく殴られてしまいます。
結局、財布は行方不明になってしまいました。助けになった歌ちゃんや楽団のメンバーは、警察や他の紳士に健太の潔白を証明します。
紳士の黒川は健太を自宅に連れて行き、「財布には選挙費用や書類が入っているから、どうかスリを捕まえてくれ」と頼みます。健太は令嬢の冴子や婚約者の山口にも歓迎され、街に出かけます。歌ちゃん楽団の一員となった健太は、スリのサブ公を見つけるために動き始めます。
しかし、冴子は山口との関係で健太を利用し、健太は思わぬ災難に巻き込まれ、簡易裁判所で一ヶ月の重労働が命じられ、大邸宅の山口の料理人になります。
楽団を離れ、闇の中をさまよった結果、健太は歌ちゃん楽団と協力してスリを捕まえ、黒川一味の政治の不正を明るみに出します。ある盛り場で歌ちゃんと健太は、「この世の中とシャックリは、びっくりしなけりゃなおらない…」と大きな目と口で歌っていました。
ブギウギ「タナケン」モデル喜劇王榎本健一と笠置シズ子の映画:歌うエノケン捕物帖
画像引用元:楽天市場
『歌うエノケン捕物帖』は、1948年に製作された映画で、エノケンが主演を務めました。
この作品は、時代劇のジャンルに分類され、渡辺邦男が監督を務めました。エノケンが江戸の街で唄を歌いつつ仕事に励む篭かきに扮し、ふとしたことで目撃した犯罪捜査に協力します。
江戸の街で、かごかき権三と助十のコンビが楽しく歌いながら生計を立てていました。権三は男らしい女房おさきに悩まされております。
一方で、助十はおしげを愛していますが、おしげは兄の清太郎が上方へ行っている間に病身の父清兵衛を看病し、苦しい生活を続けているため、夫婦になれないでいます。
その上、悪い侍三十郎が借金をたてにおしげを狙っているため、助十も心配しています。清兵衛が米屋へ金の工面を頼みに行った夜、強盗が入り、清兵衛は命を奪われます。
偶然にも帰宅した清太郎と出会った清兵衛は、清太郎が犯人だと思い込み、罪を自ら負って去っていきます。権三と助十はその夜、現場で犯人を見かけ、最初は怖気づいた権三もおさきに励まされ、犯人捜査に協力します。
権三は占い師に方角を尋ね、歩き回って不思議な「伺い所」にたどり着きますが、それが賊のアジトだと気づきます。
しかも、賊の首領はあの悪い侍三十郎でした。一味は捕まり、三十郎は替玉のおさきを使った偽の祝言の席で一味の黒幕の怪しい人物と共に捕まります。
最終的には、助十とおしげを囲んで権三、おさきを中に、長屋の住人たちは朗らかに合唱し、幸福な結末を迎えます。清兵衛が無実の罪で牢獄で亡くなったのは悲劇でしたが、一同の顔は輝いています。
ブギウギ「タナケン」モデル喜劇王榎本健一と笠置シズ子の映画:エノケン・笠置のお染久松
画像引用元:楽天市場
『エノケン・笠置のお染久松』は、1949年に公開されたミュージカル映画で、エノケンと笠置シズ子が主演を務めました。
この作品は、お染と久松という二人のキャラクターを中心に展開され、エノケンと笠置シズ子の強烈なパーソナリティが活かされています。
今日は「野崎まいりは屋形船でまいろお染久松せつない恋の……」という場で、屋形船で油屋一家総動員の野崎まいりが行われています。
しかし、油屋の小僧久松は大番頭や小番頭にいじめられっぱなしです。お染はこれを見かねてかばいつつも、久松はますます意地悪されてしまいます。久松の故郷である野崎村でのお祭りが開催されます。
たくさんの人の中で「もしもしカメよのかけくらべ……」が行われ、偶然にも久松が石段からころげ落ちて一等になり、人気者となります。
この出来事以降、久松はお染のお気に入りとなりますが、大番頭や小番頭の連中がますます面白くないと思います。
特に三河屋の若だんなはお染に興味を持っており、大番頭の太郎衛門の弱味を利用して彼を使ってお染を嫁にしようと熱心になります。
しかし、お染は若だんなを相手にしない決意を固めています。そして毎日、お染と久松が歌と踊りで楽しく過ごしていることが気にくわないと感じています。
お常の母親も心配でたまりません。太郎衛門もこれに付け込んで久松を追い出すために悪巧みを巡らせ、結局彼を追い出してしまいます。
怒り狂ったお染はハンストに入り、一切の食事を拒絶します。一方、久松は妹のお光が実は妹でなく、父の久作が久松とお光を夫婦にしようとしていることを知ります。
これにより、お染をますます忘れられなくなります。蔵の中にいたお染も久松を思い出し、逃げ出してしまいます。
彼女の行き先は野崎村の久松の家でした。しかし、久松の父の久作はそぐわない縁だとしても無理にお光と久松を夫婦にしようとします。
お常も駆けつけてきますが、お光は久松とお染の切なる思いを知り、身を引いて野崎村を去っていくことになります。お染と久松はめでたしめでたしの結末を迎えます。
ブギウギ「喜劇王 タナケン」モデル役:生瀬勝久さん
画像引用元:楽天市場
生瀬勝久(1960年10月13日生まれ)は、日本の俳優、タレント、司会者です。
兵庫県西宮市出身で、兵庫県立宝塚高等学校、同志社大学文学部社会学科を卒業しました。
旧芸名は槍魔栗三助でしたが、1988年にNHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』への出演を機に本名に変更しました。
個性的な演技で知られ、映画、テレビ、ラジオ、舞台などで幅広く活動しています。
シリアスからコミカルまで様々な役柄を変幻自在に演じ、主役を引き立てる名脇役として知られています。また、独特のキャラクターを生かしてバラエティ番組にも活躍の幅を広げています。
『トリック』、『ごくせん』、『功名が辻』、『ゴーストママ捜査線〜僕とママの不思議な100日〜』など、仲間由紀恵との共演が多いです。
また、2005年に『お父さんのバックドロップ』で高崎映画祭最優秀助演男優賞を受賞し、2013年には第32回ベスト・ファーザーイエローリボン賞を受賞しました。
生瀬勝久さんの演技は視聴者から高い評価を受けており、その才能と魅力は今後も日本のエンターテイメント業界に大きな影響を与え続けるでしょう。
生瀬勝久さんが棚橋健二「タナケン」を演じる際に心がけたことは?
生瀬勝久さんは、舞台上での”タナケン”と、普段の本来の”棚橋健二”のキャラクターを区別することに注力しました。
生瀬勝久さんが考える才能ある喜劇俳優は、舞台上と日常生活での姿において際立ったギャップがあると感じています。
例えば、渥美清さんや志村けんさんのように、舞台上では弾けるようなエネルギーを発揮し、一方で舞台を降りた際には深く考え、謙虚な姿勢を見せること。
そのような静と動を使い分けて演じることが重要だと思っています。
また、稀代の喜劇王を演じる際には、「間(ま)」の使い方やテンポに特に気を配りました。
戦後の映画を観ると、セリフの速さが驚くほど速く、俳優たちの技術が非常に高かったと感じます。
私はそのようなテンポを劇中の劇で表現しようとしていますが、やはり難しい部分もあります。
しかし、それによって素の棚橋との対比が生まれ、舞台においてメリハリが生じると考えています。
朝ドラ「ブギウギ」物語は?
大阪の銭湯の看板娘として花田鈴子は育ちます。
幼い頃から歌ったり踊ったりするのが好きが講じて、道頓堀にある梅丸少女歌劇団(USK)に入団します。
歌の才能が出てきた花田鈴子は、母親のアイデアで福来スズ子という芸名にして、歌手という道を進んでいき、のちに戦後のスターとなります。
福来スズ子のモデルは笠置シヅ子です。
笠置シヅ子については
>>>福来スズ子のモデル笠置シヅ子の父母や夫や子供と経歴は?
をご覧ください。
朝ドラ「ブギウギ」物語は?
大正時代の末期、大阪の下町にある小さな銭湯の看板娘、花田鈴子は、歌って踊ることが大好きな明るく純真な女の子です。小学校を卒業した際、鈴子は、「歌と踊りで人々を笑顔にしたい」という思いを抱き、道頓堀に新しくできた歌劇団に入団しました。一生懸命に稽古に励んだ鈴子は、急速に成長し、抜群の歌唱力で才能を開花させていきます。
昭和13年、鈴子は上京します。そこで、人気のある作曲家と出会い、鈴子の運命が大きく変わります。鈴子は作曲家の指導を受けることによって、「スウィングの女王」として知られる人気歌手になっていきます。
しかし、戦争が勃発すると、鈴子の状況は一変します。鈴子の歌っていた曲が「敵性音楽」と見なされ、彼女の舞台での歌や踊りは厳しく制限されてしまいます。さらに、鈴子の弟は徴兵され、ちょうどその頃、鈴子の母も病気で亡くなってしまいます。
悲劇が重なり、悩む鈴子の前に、とある青年が登場します。ふたりは恋に落ちて、やがて結婚を誓い合います。しかし、青年の家族は強く反対し、結婚は中々、実現しませんでした。そののち戦争が終わり、鈴子は青年の子を授かります。しかし、青年は病に倒れてしまいます。会うことができず、結婚も果たせぬまま、別れることとなりました。数日後、鈴子はひとりで娘を出産します。
鈴子は娘を育てながら一人で舞台で歌い続けます。そんな中、生まれたのが「東京ブギウギ」という曲です。明るく飾らずに、全身で歌うことが鈴子の真骨頂でした。戦後の傷ついた日本に、彼女の歌声が響き渡ります。鈴子の歌声に合わせて笑顔で歌い踊る人々が全国に広がっていきました。鈴子は「ブギの女王」と称され、日本の大スター歌手への階段を駆け上がっていきます。
朝ドラ「ブギウギ」のキャストと相関図は?
朝ドラ「ブギウギ」の相関図は上のインスタをご覧ください。
また、キャストについては、
【ブギウギキャスト一覧相関図!モデルの笠置シヅ子を紹介!】
をご覧ください。
朝ドラ「ブギウギ」の吹き出しあらすじネタバレ紹介
当サイトでは、朝ドラ「ブギウギ」の吹き出しであらすじをネタバレ紹介しています。
【ブギウギ今後のあらすじを吹き出しで紹介!ネタバレ一覧!】
をご覧ください。
ブギウギタナケンモデル喜劇王榎本健一と笠置シズ子の映画!まとめ
NHKの2023年後期連続テレビ小説:朝ドラ「ブギウギ」USK梅丸少女歌劇団の魅力なレビューの一つである「ラインダンス」について紹介しました。
福来スズ子のモデルになった笠置シヅ子については
>>>福来スズ子のモデル笠置シヅ子の父母や夫や子供と経歴は?
をご覧ください。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。