朝ドラ「らんまん」で田邊教授の恩人として文部大臣の森有礼が登場します。
朝の連続テレビ小説「らんまん」で田邊教授の恩人として史実と全く同じ名前の、森有礼初代文部大臣が登場します。モデルも実在する森有礼です。読み方は「もり ありのり」です。
田邊教授が役人としてアメリカに渡りそのままコーネル大学で国費留学生として金銭面の補助をしたり、御茶ノ水高等女学校校長に就任させたため、森有礼は田邊教授の恩人として扱われます。
史実でも田邊教授のモデルである矢田部良吉が1871年(明治4年)に森有礼に随行してアメリカ合衆国に渡り、翌年よりコーネル大学で植物学を学びます。
森有礼は、日本で最初の契約結婚をします。契約は「それぞれが妻、夫であること」、「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」、「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」の3条から成りたち、証人は福沢諭吉でした。日本での男女平等の先駆けとなります。
そんな森有礼の最期は、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を深く刺され、翌日の2月12日に43歳の若さで最期となりました。
今回は森有礼の史実と、朝ドラ「らんまん」の森有礼を紹介します。
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日本を代表する知識人:森有礼の経歴と功績
森有礼(もり ありのり)は、日本の政治家、外交官、思想家、そして教育者であり、日本を代表する知識人の一人です。彼の経歴と功績は日本の歴史に深い影響を与えました。1847年(弘化4年7月13日)に薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた彼は、若い頃から学問に熱心でした。
森有礼は、元治元年(1864年)頃より藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講するなど、西洋の学問にも優れた興味を持ちました。慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航し、イギリスやロシア、アメリカで留学生活を送りました。この留学経験が彼の知識と視野を広げるきっかけとなりました。
明治元年(1868年)に帰国後、森有礼は外国官権判事に任じられ、高官になりましたが、減俸を求める「減俸嘆願書」を上申するなど、公正な姿勢で知られていました。
外交の舞台で輝いた一面:森有礼の国際交流と外交実績
森有礼は、外交官としても活躍し、国際交流の舞台で輝きました。明治3年(1870年)にはアメリカに赴任し、アメリカの有識者に日本の教育について意見を求めるなど積極的な姿勢で活動しました。また、ロシアや英国でも公使として任務を遂行し、日本の外交の発展に寄与しました。
特に1872年、アメリカ駐在少弁務使として、アメリカの有識者による意見を集めた論文「Education in Japan(日本における教育)」を発表し、日本の教育制度に関する貴重な情報をもたらしました。さらに、「Religious Freedom in Japan(日本における宗教の自由)」を発表するなど、国際社会との意見交換を通じて日本の情報発信に尽力しました。
若くして政界の頂点へ:森有礼の登竜門となった出来事
森有礼は若くして政界の頂点に立ちました。明治18年(1885年)に第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、諸学校令制定により戦前の教育制度を確立しました。彼の教育政策は日本の近代化に大きく貢献しました。
また、彼の政界入りのきっかけとなった出来事として、アメリカ駐在時に広瀬常と契約結婚をしたことが挙げられます。これは当時の日本では珍しい試みであり、「契約結婚のはしり」として注目されました。
契約結婚は「それぞれが妻、夫であること」、「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」、「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」の3条から成りたち、証人は福沢諭吉でした。
ある意味、男女が平等であることについて日本の先駆者かもしれませんね。
著名な家系に育まれた知識人:森有礼の家族と背景
森有礼は著名な家系に生まれ育ちました。彼の父は薩摩藩士:森喜右衛門有恕であり、家族は代々文化や学問に貢献してきた名門の家系です。
安政7年(1860年)頃より造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)頃、藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講します。慶応元年(1865年)には、イギリスに留学します。
このような家族の背景は、彼の知識人としての道に大きな影響を与えました。
また、森有礼は福澤諭吉とともに、明六社を結成するなど、当時の知識人たちと交流を深めていました。彼の知識と洞察力は多くの人々に認知され、日本の近代化において重要な役割を果たしました。
時代を切り開いた先見の明:森有礼の思想とビジョン
森有礼は時代を切り開く先見の明を持った思想家でした。彼の思想とビジョンは、日本の未来を切り拓く重要な要素となりました。
彼は西洋文化と日本の伝統文化を融合させることを提唱し、「国語英語化論」を唱えました。彼の急進的な考えは当時の大衆の感覚とは乖離していましたが、彼の先見の明によって、日本の近代化と国際化に向けた一歩を踏み出すきっかけとなりました。
彼の遺志は、後世の教育者たちによって受け継がれ、現代の日本にも影響を与え続けています。森有礼は43歳という若さで亡くなりましたが、その功績と思想は日本の歴史に永遠に刻まれることでしょう。
近代教育制度の創始者で初代文部大臣の森有礼。
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朝ドラ「らんまん」の「橋本さとし」さん演ずる森有礼文部大臣
東京大学植物学教室の田邊教授の恩人として森有礼初代文部大臣が登場します。
森有礼から田邊教授の所で「国語の問題について進めよ」という手紙が届く。というのも、森有礼は、日本語は捨て、国語としては英語を採用すべきだと考えていからだ。
田邊教授は、御茶ノ水高等女学校校長に就任する恩義として、森有礼に尽くします。
ある日、森有礼が田邊教授にやってきて、田邊教授を痛快といい、外務省の役人としてアメリカに赴任した際、外務省の役人として随行してアメリカに着くなり役人の身分を捨ててコーネル大学で勉強したという。
アメリカに渡るために森有礼を利用したといい、大学費用をもつため国費留学生としたという。
自分こそが日本をめざめさせる天下第一の学者になるといっていた田邊教授を話す森有礼、将来右腕にするならそれぐらいの男でないと困ると言います。
そして、伊藤博文が内閣総理大臣となり、森有礼が文部大臣になると、東京大学が帝国大学に改められ、理学部は帝国大学理科大学となり、田邊教授が初代教頭となります。
らんまんの主人公である槙野万太郎と森有礼は立ち話をします。槙野万太郎は植物学教室出禁の身ではありましたが、森有礼は田邊教授の学生として田邊教授から沢山学ぶようにと助言します。
らんまんモデル日本の植物分類学者の父:牧野富太郎博士とは?
朝ドラ「らんまん」の主人公:槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士は、当時日本に生息する植物を徹底的に研究し、多くの新種の植物を発見しました。
また、その研究成果をまとめた『新日本植物図鑑』は、日本の植物学に大きな貢献をした書籍として知られています。
牧野富太郎博士については【槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士の父母や妻や子供と経歴は?】をご覧ください。
また、東京で牧野富太郎博士の自宅を「我が植物園」と称して植物を植えましたが、その跡地に練馬区立牧野記念庭園があります。
練馬区立牧野記念庭園については
【朝ドラ「らんまん」牧野富太郎博士の終焉の地!練馬区の牧野記念庭園】
をご覧ください。
牧野富太郎博士の植物学を深堀りしたい方は↓へ
🌸牧野富太郎博士と植物学に迫る↑
らんまんの予習復習はドラマガイドで❕
前編↓
後編↓
🌸朝ドラ「らんまん」をガイドでみよう↑↑
まとめ
森有礼は日本を代表する知識人であり、彼の経歴と功績は日本の歴史に深く刻まれています。彼の外交実績や政治活動は、日本の国際的な地位向上に大きく貢献しました。また、彼の家族や背景、そして先見の明を持った思想とビジョンは、彼の成功に欠かせない要素でした。
また、史実とほぼ同じ形で朝ドラ「らんまん」にも登場することを紹介しました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
FAQs:
Q: 森有礼はどのような家に生まれましたか?
A: 森有礼は薩摩藩士の家に生まれました。彼の家族は代々文化や学問に貢献してきた名門の家系でした。
Q: 森有礼は外交官として何を成し遂げましたか?
A: 彼はアメリカやロシア、英国での外交官として日本の教育や宗教に関する意見交換を行い、日本の国際的な発展に寄与しました。
Q: 森有礼の政治的な功績は何ですか?
A: 彼は第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により戦前の教育制度を確立し、日本の近代化に貢献しました。
Q: 森有礼は何歳で亡くなりましたか?
A: 彼は43歳の若さで亡くなりました。
Q: 森有礼のビジョンは何でしたか?
A: 彼は西洋文化と日本の伝統文化を融合させることを提唱し、日本の近代化と国際化に向けた先見の明を持っていました。