
2023年度前期 連続テレビ小説「らんまん」の主人公:槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士の経歴をまとめました。
1862年に高知県佐川町生まれで幼名は成太郎。子供の頃から植物に没頭し、抱負の15箇条を「赭鞭一撻」にまとめ植物学にのめりこみました。
東京帝国大学の嘱託として働き始め、さらに植物学を深耕しました。
自身が老いても植物に対する情熱はすごく、中国まで遠征するほどでした。
また、プライベートでは、小澤壽衛と所帯を持ち、7人の子宝に恵まれました。
ひ孫の牧野一浡さんは、牧野富太郎博士の終の棲家の跡地にできた牧野記念庭園に勤務されています。
この記事をもとに、連続テレビ小説「らんまん」を見ていただけると嬉しいです。
・2023年度前期NHKの連続テレビ小説「らんまん」に興味がある方
・槙野万太郎のモデルとなった牧野富太郎博士の経歴について知りたい方
NHKの連続テレビ小説「らんまん」槙野万太郎役の神木隆之介さん
NHKの連続テレビ小説「らんまん」で主役の槙野万太郎役の神木隆之介さんです。
牧野富太郎博士のプロフィール
2023年度前期 連続テレビ小説「らんまん」の主人公:槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士のプロフィールです。
牧野 富太郎
牧野 富太郎 (まきの とみたろう):1862年5月22日(文久2年4月24日) ~ 1957年(昭和32年1月18日)、高知県高岡郡佐川町出身の植物学者。日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけました。
収集した標本は約40満点、所蔵は約4万5千冊で、1,500種類以上の植物を発見、命名し、日本の植物分類学の礎を作った一人です。
牧野富太郎は植物が好きな人はみんなお友達というノリでした。また、海洋生物や植物のご研究に力を注いだ昭和天皇に牧野富太郎が御進行を行いました。
昭和天皇の印象について聞いたところ「友達みたいでした」と言いました。
それを聞いた次女が「お父さん!ちょっとそれは・・」と突っ込みをいれました。
こんな感じで破天荒であり、欲しい研究の本を買うと借金が増えたりと波乱万丈な人生に見えますが、牧野富太郎からみたら、必然であり、波乱万丈ではなかったと考えていました。

「まきのまきのレター」は絵本で牧野富太郎博士を知ることができます!
妻や子は?家族について

牧野富太郎の妻は、小澤壽衛との間に13人の子供をもうけました。うち、7人の子供が育ちました。
壽衛は富太郎を尊敬し、支えていました。ちなみに、壽衛は外出をする際、借り着をしてオシャレをしていました。(でも牧野富太郎はそのことをしらなかったのではと言われています。)
でも昭和3年56歳で他界してしまいました。
牧野富太郎の7人の子供は以下の通り。
- 長女:香代
- 次女:鶴代
- 長男:春世
- 次男:百世
- 三男:勝世
- 三女:己代
- 四女:玉代
現代と比べ、医療が発達していない当時は、子供が育たないことがわかりますね。
牧野富太郎博士の経歴
牧野富太郎博士の経歴を時系列で紹介します。
少年期まで高知県で過ごす
- 文久 2年(1862) 0歳 4月24日土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)に「岸屋」という酒造業を営む名家の一人息子として生まれる。幼名。成太郎。
- 慶応元年(1865) 3歳 父、佐平病気で亡くなる。
- 慶応 3年(1867) 5歳 母、久壽病気で亡くなる。祖母浪子に育てられる。
- 慶応 4年(1868) 6歳 祖父、小左衛門病気で亡くなる。このころに、富太郎と改名。
- 明治 5年(1872)10歳 土居謙護の寺子屋で習字を習う。
- 明治 6年(1873)11歳 漢学者:伊藤蘭林の塾で漢学の基礎を固める。
名教館に入り西洋の諸学科を学ぶ、英語学校の生徒となる。
後の妻、小澤壽衛生まれる。 - 明治 7年(1874)12歳 学制令により佐川小学校が開校され入学。
- 明治 9年(1876)14歳 小学校の授業に飽き足らず、自主退学。
採集した植物を「重訂本草綱目啓蒙」などで調べ植物の名前を覚える。 - 明治10年(1877)15歳 佐川小学校授業生(臨時職員)となる。昆虫にも興味を持ち採集する。
- 明治12年(1879)17歳 授業生を辞め、高知市の弘田正郎の五松(ごしょう)学舎に入塾。
- 明治13年(1880)18歳 高知中学教員の永沼小一郎を知り、欧米の近代植物学の影響を受ける。

①忍耐を要す
②精密を要す
③草木の博覧を要す
④書籍の博覧を要す
⑤植学に関係ある学科は皆学ぶを要す
⑥洋書を講ずるを要す
⑦当(まさ)に画図を引くを学ぶべし
⑧宜(よろ)しく師を要すべし
⑨吝財者(りんざいしゃ)は植物者たるを得ず
⑩跋渉(ばっしょう)の労を厭(いと)うなかれ
⑪植物園を有するを要す
⑫博(ひろ)く交(こう)を同志に結ぶ可し
⑬邇言(じげん)を察するを要す
⑭書を家とせずして、友とすべし
⑮造物主(ぞうもつしゅ)あるを信ずるなかれ
植物学の見識を深めるため上京へ・所帯を持つ

- 明治14年(1881)19歳 第2回内国勧業博覧会の見物と、顕微鏡や書物の購入のため初めて上京。
博物局に田中芳男らを訪ね最先端の植物学の知識に触れる。
土佐に帰り高知県西南部の植物採集を行う。


初めての上京から佐川に戻った牧野富太郎は、植物採集の旅に1か月出かけました。
この時初めて、高知県西南部を植物調査をし「幡多郡採取草木図解説」として記録に残しました。
- 明治17年(1884)22歳 二度目の上京。本格的に植物学を志し上京。
東京大学理学部植物学教室への出入りを許され研究に没頭する。
とはいっても、研究の費用は全部自費。実家から費用を工面していました。
この年より明治26年までの間、東京と郷里佐川を度々往来。 - 明治19年(1886)24歳 三度目の上京。東京近郊で植物の採集を行う。
この頃、石版印刷技術を習得する。

- 明治20年(1887)25歳 友人と「植物学雑誌」創刊。
ロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送る。祖母浪子病気で亡くなる。

- 明治21年(1888)26歳 四度目の上京。自ら石版印刷した「日本植物志図篇」第1巻第1集刊行。この頃、小澤壽衛と新所帯を持つ。

東京で植物学に邁進する
- 明治22年(1889)27歳 「植物学雑誌」の誌上で、大久保三郎と共同研究した新種ヤマトグサに日本で初めて学名をつけて発表

当時、日本の植物は外国の植物学者によって命名されましたが、新種「ヤマトグサ」については、牧野富太郎が日本で初めて命名しました。
- 明治23年(1890)28歳 東京府下岩井村(現江戸川区北小岩)でムジナモを発見。
植物学教室への出入りを禁止され、このときばかりは、大学の教授を恨んでいました。
マキシモヴィッチの所に行こうとするが、彼が亡くなったため断念。

- 明治24年(1891)29歳 佐川の実家の経営が破綻し、家財整理のため高知に帰郷。
- 明治25年(1892)30歳 高知県下を採集。
- 明治26年(1893)31歳 帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる。月俸15円
植物に対する情熱をみんなが認めていたので、助手として採用されました。研究する環境が整いました。
月俸15円でしたが、研究のためのお金は惜しまなかったため借金が増えました・・
御飯にお醤油をかけて食べたり、おかずはこんにゃくだけだったりと家計で苦労しました。 - 明治32年(1899)37歳 「新撰日本植物図説」刊行。
「大日本植物志」で世界的な評価を得る

- 明治33年(1900)38歳 代表作「大日本植物志」第1巻1集刊行。世界的な評価を得る。

- 明治34年(1901)39歳 「日本植物考察(英文)」を「植物学雑誌」に連載開始。
- 明治39年(1906)44歳 「日本高山植物図鑑」(三好学と共著)刊行。
- 明治40年(1907)45歳 東京帝室博物館嘱託となる。「増訂草木図説」刊行。
- 明治41年(1908)46歳 「植物図鑑」(北隆館)刊行。
- 明治42年(1909)47歳 「横浜植物同好会」創立、会長となる。
- 明治43年(1910)48歳 東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられ、同大学の植物調査嘱託となる。

- 明治44年(1911)49歳 「東京植物同好会」創立、会長となる。
- 明治45年(1912)50歳 東京帝国大学理科大学講師となる。
- 大正 2年(1913)51歳 「植物学講義」(中興出版)刊行。
- 大正 5年(1916)54歳 「植物研究雑誌」を創刊。神戸の資産家池長孟によって経済的危機を救われる。

「植物研究雑誌」の創刊号は牧野富太郎の論文で埋め尽くされ、多くの人々に植物の魅力を伝えることとなりました。現在は、植物分類学、生薬学およびそれらに関連する分野の学術雑誌となっています。
- 大正12年(1923)61歳 関東大震災を受けて、標本や収集資料が失われることを危惧する。
- 大正14年(1925)63歳 根元莞爾と共著「日本植物総覧」(日本植物総覧刊行会)刊行。「日本植物図鑑」(北隆館)刊行。
終の棲家:大泉学園へ

- 大正15年(1926)64歳 妻、壽衛の尽力で東京府下北豊島郡大泉町(現練馬区東大泉)に新居を構える。
- 昭和 2年(1927)65歳 理学博士の学位を受ける。
- 昭和 3年(1928)66歳 妻、壽衛亡くなる(54歳)、仙台で発見した新種のササに感謝を込めて「スエコザサ」と命名。

- 昭和 7年(1932)70歳 「原色野外植物図鑑」(誠文堂新光社)刊行。
- 昭和 9年(1934)72歳 「牧野植物学全集」刊行。
- 昭和10年(1935)73歳 「趣味の植物採集」刊行。


- 昭和12年(1937)75歳 朝日文化賞受賞。朝日新聞社から「博士は日本の宝」と称される。


- 昭和14年(1939)77歳 47年間勤めていた東京大学へ辞表を提出。講師辞任。

東京大学を辞めても植物学への熱意は止まず

- 昭和15年(1940)78歳 集大成の著書「牧野日本植物図鑑」刊行。
10年近くかけてこの図鑑を完成させました。日本の全植物を系統たててまとめた、日本で初めての図鑑でした。3,206種類の植物を掲載しました。写真より図の方が分かりやすいと好評でした。
筆で1mmの間に5本線を引くなど細かく表現しています。 - 昭和16年(1941)79歳 満州にサクラ調査。安達潮花より標品館の寄付を受ける。

昭和16年(1941年)満州でのサクラの調査において、サクラに感動した牧野富太郎は、
「老爺嶺今日ぞ桜の見納めと涙に曇るわが思いかな」と詠みました。

- 昭和18年(1943)81歳 「植物記」(櫻井書店)刊行。
- 昭和20年(1945)83歳 空爆により標品館の一部が被弾し、山梨県巨摩郡穂坂村に疎開する。
戦後は数々の賞を受賞し、天寿を全うする

- 昭和21年(1946)84歳 個人誌「牧野植物混混録」第1号刊行。
- 昭和22年(1947)85歳 「牧野植物随筆」(鎌倉書房)刊行。
- 昭和23年(1948)86歳 皇居に参内、昭和天皇に植物学をご進講。
- 昭和24年(1949)87歳 大腸カタルで危篤となるも奇跡的に回復する。
- 昭和25年(1950)88歳 日本学士院会員となる。

- 昭和26年(1951)89歳 文部省に牧野博士標本保存委員会が設置される。第1回文化功労者となる。
- 昭和28年(1953)91歳 東京都名誉都民第1号となる。

- 昭和30年(1955)93歳 「東京植物同好会」が「牧野植物同好会」として再開される。

夜遅く勉強に疲れた牧野富太郎にコーヒーを持っていくと、本当にうれしそうに大変喜んだそうです。そんな2人の娘と入れ替わるように、次女の鶴代が牧野富太郎晩年の世話をすることとなります。
上の写真は、戦争が終わって2年経った昭和23年4月24日牧野富太郎の誕生日に撮影された写真です。ちなみに、牧野富太郎の膝にいるお子様は、ひ孫(次女:鶴代さんの孫)の牧野一浡(まきのかずおき)さんです。真後ろにいる眼鏡をかけた女性が鶴代さんです。牧野一浡さんは、牧野富太郎が亡くなる10歳まで一緒に暮らしていました。
牧野一浡さんは、3歳でお母さまを亡くし、祖母の鶴代さんに育てられました。書斎には行くなといわれたそうです。なので、牧野富太郎と遊んだ記憶が全くないとか。研究者なので遊んではくれなかったのですが気にはかけていていました。夕飯時になると研究に没頭している牧野富太郎の肩を叩いて御飯の準備ができたことをお知らせしたりしました。というのも、鶴代さんがお知らせしても一段落つくまでは来ないのですが、一浡さんが呼ぶと来てくれました。
牧野富太郎は、食べ物は何でも好きでしたが、お肉が特に好きでした。御飯を食べ終わったらゴロリと寝て仮眠をとり、そのあとは、夜中まで書斎で研究をしていました。
牧野富太郎は、晩年を迎えてもなお、庭の植物観察に熱中するあまり、丸2日その場所から動かないこともあったというほどでした。
日本の植物分類学の基礎を築き上げた牧野富太郎の活躍の裏には、妻の壽衛をはじめ、鶴代さんなどの家族の支えがあったからこそと言っても過言ではないでしょう。
現在、牧野一浡さんは牧野記念庭園で学芸員をされています。

正月に家族と撮影
- 昭和31年(1956)94歳 佐川町名誉町民となる。高知市五台山に牧野植物園設立が決定する。
病状が悪化し重体となる。昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。

- 昭和32年(1956) 1月18日永眠(94歳)。没後、文化勲章および従三位勲二等旭日重光章が授与される。

まとめ
今回は、2023年度前期 連続テレビ小説「らんまん」の主人公:槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士の経歴をまとめました。
大泉学園にある牧野記念庭園の記念館にある掲示物を参考・引用させていただきました。
記事を作成するにあたり、個人ブログでの掲載可のご承諾をいただき感謝申し上げます。
なお、牧野記念庭園については、以下の記事を参照願います。

牧野富太郎博士の生涯をイラストレーター佐々木香菜子氏によって描かれた絵本「まきのまきのレター」の企画展も併せてみていただけると嬉しいです!
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。