2023年度前期朝ドラ連続テレビ小説「らんまん」で寿恵子が商いをしている渋谷の待合茶屋「山桃」を売却し、関東大震災を教訓に万太郎と標本を守るため東京の郊外にある大泉村に土地を買います。実際はどうだったのでしょうか・・・
朝ドラ「らんまん」寿恵子の号令のもと、関東大震災を教訓に標本を守るため東京の郊外にある大泉村に土地を買い屋敷を建てます。
最終回では、竹雄と綾が念願の新酒を携えて、万太郎・寿恵子・虎鉄・千歳・千鶴ら家族みんなで綾と竹雄の酒を味わいながら、楽しい時間を過ごす場所となる家です。
らんまん大泉村の土地について、現在は、練馬区立牧野記念庭園となっております。
西武池袋線大泉学園駅近く、東京都練馬区東大泉にある牧野記念庭園は面積 2,576.22㎡(約672坪)とサッカーコートの半分にも満たない広さに全国から採取した植物を植栽しました。朝ドラ「らんまん」で3206種を載せた図鑑の最後のページを飾る「スエコザサ」も植栽されています。
北豊島郡大泉村は、細くて長い練馬大根が有名で、大泉村、現在の東京都練馬区の学校給食では練馬大根が入った練馬スパゲティとして出されます。
今回は朝ドラ「らんまん」に登場した大泉村の自宅について詳しく調べてみました。
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寿恵子が想い描いた植物園のイメージ図
槙野寿恵子のモデルになった、牧野富太郎博士の壽衛夫人は上図のような植物園を作りたいと考えました。
壽衛夫人は商いの才能を開花させて、大泉に庭のある家を構えます。
槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士は、晩年、この庭で妻の名前を付けた「スエコザサ」や故郷の土佐をはじめ、全国で採取した植物を大泉の家の庭に植えました。
標本館など4つの建物がある牧野富太郎博士のご自宅(繇條書屋)
槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士のご自宅は木造2階建ての住居と21.75坪の書庫と35.75坪の標品館がありました。
622.24坪の敷地には391本の樹木がありました。もともとは借地であったため、土地の所有者へと変換された住居以外の土地が庭園として整備されました。
そして昭和38(1958)年に牧野記念庭園として一般公開されるようになりました。
さらに当時の写真を紹介いたします。
標品館
建物の形から標品館はジオラマの左側にある建物ですね。
標品館の中には牧野富太郎博士の手掛けた植物の標本が山積みされていますね。
バラバラにならない様、紐で縛っています。
山積みされた標本を管理する牧野富太郎博士です。今にも標本が崩れそうですね。
自宅
二階建ての建物が1棟、平屋が2棟あります。
そういえば、らんまんの千鶴のモデルはもしかしたら、鶴代さんかもしれませんね。
牧野富太郎博士の家族に関しては「槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士!日本の植物学の父の妻や子と経歴」を参照してください
繇條書屋(ようじょうしょおく)がある2階建ての建物
二階建ての建物には、牧野富太郎博士の書斎がありました。
書斎は「繇條書屋(ようじょうしょおく)」と書かれた額が鴨居にかけられていました。
この額は日本で最初の理学博士となった伊藤圭介氏が書いたものです。
繇條とは、草が生い茂るという意味があり、この書斎自体がまさに書籍や標本や古新聞で生い茂っていました。
ただ、それらの重さで2階に穴が開いてしまうほどの量になったため、1階に「繇條書屋」が移動することになりました。
「繇條書屋」では、牧野富太郎博士が朝から晩まで書斎でずっと研究を行っていました。
槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士について
牧野富太郎博士は94年の生涯において、収集した標本は約40満点、所蔵は約4万5千冊になります。
1,500種類以上の植物を発見、命名し、日本の植物分類学の礎を作った一人として有名です。
昭和15年(1940年)に刊行された「牧野日本植物図鑑」は、現在まで改定を重ね植物図鑑として広く親しまれています。
牧野富太郎博士の略歴を紹介します。
慶応元年(1865年) 父、佐平病気で亡くなる。
慶応3年(1867年) 母、久壽病気で亡くなる。祖父母浪子の手で育てられる。
明治5年(1872年) 土居謙護の寺子屋で習字を学ぶ。
明治7年(1874年) 学校令により佐川小学校開校で入学。
明治9年(1876年) 小学校の授業に飽き足らず自主退学。
明治10年(1877年) 佐川小学校授業生(臨時職員)となる。
明治12年(1879年) 授業生を辞めて高知市の五松(ごしょう)学舎に入塾。
明治13年(1880年) 高知中学教員長沼小一郎を知り、欧米の近代植物学の影響を受ける。
明治17年(1884年) 上京し、東京大学理学部植物学教室へ出入りする。
明治22年(1889年) 日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけて発表する。
明治26年(1893年) 帝国大学理科大学助手となる
明治33年(1900年) 「大日本植物志」第一巻第一集刊行
明治45年(1912年) 投稿帝国大学理科大学講師となる
大正5年(1916年) 「植物研究雑誌」を自費創刊。
大正15年(1926年) 東京府北豊島郡大泉村上土支田557に家を構える(現在の牧野記念庭園)
昭和2年(1927年) 理学博士の学位を受ける
昭和3年(1928年) 壽衛夫人永眠、スエコザサを命名
昭和12年(1937年) 朝日文化賞を受ける
昭和14年(1937年) 東京帝国大学理学部講師を勤務47年で辞任
昭和15年(1940年) 「牧野日本植物図鑑」刊行
昭和26年(1951年) 第一回文化功労者となる
昭和28年(1953年) 東京都名誉都民となる
昭和32年(1957年) 満94歳永眠
没後従三位勲二等旭日重光章および文化勲章が授与される
なお、晩年、博士が危篤に際は、マスコミが自宅前にテントを張って1カ月間張り込み、日本の国民的スターの様な扱いで病状を伝えていたとのことです。
詳しい経歴については、【槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士の父母や妻や子供と経歴は?】を参照してください。
現在の槙野万太郎自宅跡地は?練馬区立牧野記念庭園
槙野万太郎と寿恵子が屋敷を建てた大泉村、現在は練馬区立牧野記念庭園になっています。
牧野記念庭園で一番大きな建物は、記念館で牧野富太郎博士に関する展示物があります。
記念館には、牧野富太郎博士の遺品や関連資料が展示されています。
なお、剪定バサミについては一般向けに剪定ばさみ牧野エディションとして販売されています。
博士が逝去されるまで暮らしていた邸宅の跡地に建てられました。
記念館には常設展示室と企画展示室があります。
常設展示室は、解説パネル、博士の採集道具や描画道具、執筆した書物や描いた植物図が展示されています。
恐らく物資も少ない時代ですから採取道具は大切にされていたのでしょうね。
植物図を描くための描画道具や印なども展示されています。
牧野富太郎博士が手掛けた「日本植物図鑑」、「牧野日本植物図鑑」、「牧野植物混混録」も展示されています。
「牧野日本植物図鑑」については、この敷地内に建てられていたご自宅の書斎で書かれていたとみられています。
収集した植物標本の中にはご自宅の庭で採取されたものもあります。
「白浜ゆ海の彼方ハいづくかも 果して知られぬ波のうねうね」 結網学人 牧野富太郎 九十一歳
牧野富太郎博士が晩年に書いた色紙も展示されています。
さらに、展示物の下には引出しがあり、それをひきだすと・・・
牧野富太郎博士が実際に採取し標本にした植物をみることができます。中には100年以上も前の標本があります。
練馬区立牧野記念庭園については【朝ドラ「らんまん」牧野富太郎博士の終焉の地!練馬区の牧野記念庭園】も併せてごらんください。
3206種を載せた図鑑の最後のページを飾る「スエコザサ」も見ることができます!
牧野記念庭園には、妻の名前を学名にした「スエコザサ」をみることができます。
スエコザサについては【スエコザサ特徴や名前の由来や画像は?らんまんのあらすじ】をご覧ください。
牧野記念庭園の運営情報・アクセス
住所:練馬区東大泉6-34-4
開園時間:午前9時~午後5時※特別展は午前9時30分~午後4時30分です。
休園日:毎週火曜日(火曜日が祝休日にあたる場合は、その直後の祝休日でない日)
年末年始(12月29日~1月3日)
入場料:無料
アクセス:西武池袋線大泉学園駅(南口)徒歩5分
大泉学園駅から牧野記念庭園まで、「車椅子でも通行可能なルート」も併せてご覧ください。
らんまん大泉村どこの土地?寿恵子が描いた植物園と標本館まとめ
今回は朝ドラ「らんまん」で寿恵子の号令のもと、関東大震災を教訓に標本を守るため東京の郊外にある大泉村に土地を買い屋敷について実際の写真を紹介しました。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。
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