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らんまん徳永教授モデル松村任三はどんな人?朝ドラや生家

牧野記念庭園内の牧野富太郎のパネル大泉学園
牧野記念庭園内の牧野富太郎のパネル
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NHK朝ドラ「らんまん」で田中哲司さん演じる東京大学植物学教室の徳永政市教授のモデル松村任三について調べました。

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NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」で田中哲司さん演じる東京大学植物学教室の徳永政市助教授(のちに教授、名誉教授)のモデルである松村任三とはどんな人物だったのか調べました。

松村任三(まつむら じんぞう)は、植物学者として日本の植物学の基礎を築いた人物の一人です。

また、「日本植物分類学の父」と讃えられる牧野富太郎(まきの とみたろう)博士にも影響を与えました。

そんな松村任三ですが、実際は、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきます。

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松村任三の略歴

  • 1856年:常陸国多賀郡下手綱村で生まれる。
  • 1870年:貢進生に選ばれ大学南校(後の東京開成学校、現在の東京大学)に入学。
  • 1877年:東京大学小石川植物園に就職。エドワード・S・モースの大森貝塚発掘に参加
  • 1883年:東京大学生物学科の助教授となる。
  • 1886年:ドイツに留学。
  • 1888年:帰国し、東京帝国大学の植物学教室の主任教授となる。
  • 1891年:理学博士学位取得
  • 1893年:牧野富太郎博士を助手として採用する。
  • 1897年:東京帝国大学理科大学附属植物園の初代園長に就任
  • 1922年:教授を引退する。
  • 1928年:脳溢血で東京の自宅で亡くなる。
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松村任三が生きた時代

松村任三が生きた江戸時代が終わり、日本が開国したことにより、本格的な西欧の学問が日本に入り始まりました。江戸時代にも蘭学という形で、自然科学を中心に西欧の学問が日本に入っていましたが、開国後は法律や哲学といった人文系の学問も学ばれるようになりました。

それと同時に、植物自体を研究の対象とする植物学も入ってきました。植物の研究については、明治時代の以前から「本草学」という形で存在はしていましたが、研究の対象は殆どが薬草でした。また、正確に植物の分類が実施されてはいませんでした。

日本の初期の植物学者たちは最初、西欧の植物学者が命名した分類群を理解するの苦戦しました。さらに、海外へ行かなければ植物の標本に触れることができず、文献も不足しており、日本が単独で学術結果を発表できる水準には達していませんでした。当初は植物の標本をマキシモビッチ博士など、海外の専門家に送って鑑定を依頼していましたが、標本の数が増えることで、回答をもらうこと自体、難しくなっていきました。

このような時代背景もあって、日本人によって日本の植物を正確に分類できるようにする事は、日本の植物分類学にとって、早急に解決すべき課題でした。

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松村任三の足跡と主な出来事

松村任三は安政3年(1856年)に生まれ、昭和3年(1928年)に亡くなりました。その生涯を主な出来事と共に見ていきます。

植物の世界に飛び込む

松村任三は1856年に常陸国(現在の茨城県)の松岡藩の家老の長男として生まれました。幼少期から両親に漢学を学び、9歳の頃は『史記』や『三国志』なども読むようになりました。当時の社会情勢から、15歳ごろには英語の学習の必要性を感じ、独学で英語を始めました。

松村任三の優れた才能は認められ、明治3年(1870年)には貢進生に選ばれ東京の大学南校(現在の東京大学)で学ぶことになりました。

貢進生(こうしんせい)とは、各藩からの推薦を受けて大学南校に入学した生徒のことを言います。

そして、明治6年(1873年)には開成学校(現在の東京大学)に進み、法律学を修めました。

しかし、開成学校卒業後、松村任三が取り組んだのは法律学とは全く異なる学問の世界でした。明治10年(1877年)に東京大学小石川植物園に就職し、そこで植物学を研究していた東京大学の矢田部良吉教授に師事するようになりました。

松村任三は矢田部良吉の助手として、全国各地で植物の採集活動に従事しました。採集活動の回数は約200回も行いました。また、同時期に松村任三は、日本の近代考古学と人類学にとって重要な存在である大森貝塚(東京都品川区)の発掘にも協力しました。

植物学者としての活躍

その後も松村任三は、植物の研究を継続しました。明治16年(1883年)には東京大学の助教授に就任し、これまでの研究成果を『日本植物名彙』などの著書にまとめました。

明治19年(1886年)には自費でドイツに留学し、ハイデルブルク大学およびヴュルツブルク大学で植物分類学と生理学を学びました。ヨーロッパ各地を訪れた後、明治21年(1888年)に帰国しました。

帰国後、松村任三は東京大学の植物学教室の主任教授として就任し、多くの植物学の書籍を出版しました(『日本植物名彙』『帝国植物名鑑』等)。彼は植物分類学の分野で業績を上げました。また、入手が困難だった学術雑誌や著作物の収集、植物の標本の収集、顕微鏡を用いた植物解剖学の教育なども行いました。また、東京帝国大学さく葉庫の基盤を築く役割も果たしました。

さらに、松村任三は150種以上の新種の植物を発見し、それぞれに学名を与えました。その中には、現在でも広く知られているソメイヨシノやフジアザミなども含まれています。また、明治天皇の前で食虫植物やサボテンについての講義も行っています。

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松村任三と牧野富太郎博士とのつながり

松村任三は、「日本植物学の父」と讃えられる牧野富太郎博士とも深いつながりがあります。

2人の出会いは、明治17年(1884)に牧野富太郎博士が東京大学理学部の植物学教室を訪問した事がきっかけで始まりました。この時、牧野富太郎博士は教室に出入りして文献や資料を自由に閲覧しても良いという許可まで取り付けています。

その後、牧野富太郎博士は新種を発表するなど学者として注目され始めた矢先に、矢田部良吉から牧野富太郎博士は植物学教室への出入りが禁止されてしまったのです。公には、大学が植物図鑑を発行するため、自由に書物や標本を閲覧することを禁止するという理由でしたが、実際には牧野富太郎博士が東京帝国大学教授である矢田部良吉に相応の経歴を示していないことや、富太郎が大学の蔵書を長期間返却していなかったことが理由の一つとされています。

この出入り禁止により、牧野富太郎博士は研究の基盤を失いました。牧野富太郎は、自身を高く評価してくれる植物学者のつてを頼ってロシアに移住することさえ考えたと言われています。

牧野富太郎博士は出入り禁止後、一旦帰郷して家財整理を行い、地元の植物の研究に取り組んでいました。しかし、知人たちの助力により、1893年に創設された帝国大学農科大学(駒場)で研究を再開する機会を得て、再び東京に戻りました。

その後、矢田部良吉が退任後に主任になった松村任三が「大学の助手として採用したい」旨、牧野富太郎博士宛に手紙をおくります。それにより、牧野富太郎博士が東京帝国大学理科大学に月給15円で助手として採用されました。(でも実際は助手としてのポストではありませんでした。)

採用された背景には、帝国大学理科大学の学長である菊池大麓によるものだと牧野富太郎博士は語っています。菊池大麓は、牧野富太郎博士の実力を認めた上に、彼に同情的でありました。


これにより、研究基盤を確保できた牧野富太郎博士でしたが、両者の価値観の相違もあり、松村任三と牧野富太郎博士の関係は悪化していきます。

悪化の理由として、松村任三の夫人が身内にして夫の手助けをさせようと牧野富太郎博士に縁者の娘と結婚をするように頼まれたが既に壽恵と結婚していたため、縁談を断ったことも一因と言われています。

また、牧野富太郎博士が「植物学雑誌」でドンドン発表すると、松村任三が牧野富太郎博士に嫉妬して「君はあの雑誌へ盛んに出すようだが、もう少し自重して出さぬようにしたらどうだ」と言ったこともあります。

牧野富太郎博士は、松村任三の下で働いているが、師弟関係があった訳でもなく、気兼ねをする必要も感じなかった為、研究結果を発表していました。

それ故、30年間にわたり松村任三は牧野富太郎博士の悪口を事あるごとに言っていました。

牧野富太郎博士2度目の大学出禁の危機のきっかけは松村任三

牧野富太郎博士は矢田部良吉により1度大学を出禁にされます。その後、松村任三によって、大学復帰します。

松村任三は牧野富太郎博士への縁談断りや嫉妬からとうとう牧野富太郎博士を出禁にしようと罷職を企てます。

でも、学長の箕作佳吉先生は松村任三から牧野富太郎博士への事を熟知しており、罷職を企てませんでしたが、箕作佳吉先生が学長を退いたとたん、松村任三は、牧野富太郎博士を罷職させようとします。

でも、

「牧野を罷めさせることはない。そんな事をしては教室が不自由で困る、また教室の秩序も乱れる」

と反対派の意見もあり、この企ては失敗し、2度目の出禁になりませんでした。

ただ、松村任三が牧野富太郎博士を助手として採用したという出来事は、牧野富太郎博士にとって極めて重要であったと考えられます。助手になることで、研究に没頭するための基盤ができたからです。いずれにせよ、2人の出会いが日本の植物学の発展に不可欠であったとは間違えではありません。

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松村任三の生家は?

松村任三の生家は、茨城県高萩市にあったのですが、2012年(平成24年)12月10日全燃してしました。ただし、長屋門だけ焼失せず残っております。

焼失しなかった長屋門の周りにロープが張られており、一般には公開していないようですね。

※立ち入ることの無いようお願いします。

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日本の植物分類学者の父:牧野富太郎博士とは?

牧野博士は、当時日本に生息する植物を徹底的に研究し、多くの新種の植物を発見しました。

また、その研究成果をまとめた『新日本植物図鑑』は、日本の植物学に大きな貢献をした書籍として知られています。

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牧野富太郎博士については【槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士の父母や妻や子供と経歴は?】をご覧ください。

また、東京で牧野富太郎博士の自宅を「我が植物園」と称して植物を植えましたが、その跡地に練馬区立牧野記念庭園があります。

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練馬区立牧野記念庭園については
朝ドラ「らんまん」牧野富太郎博士の終焉の地!練馬区の牧野記念庭園
をご覧ください。

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朝ドラ「らんまん」徳永教授と槙野万太郎

東京大学田邊教授が槙野万太郎の東大の植物学教室の出入りを許可するが、小学校中退の万太郎に納得してない徳永助教授は猛反対します。

田邊教授から英語を勉強しなさいと言われたことも・・

・史実:英語を独学で勉強
・ドラマ:英語が苦手



ある日、槙野万太郎が植物学教室に咲いているユウガオに話しかけている万太郎に徳永助教授が声をかけて、アサガオ、ヒルガオ、ユウガオ、一つだけ異なるのはどれだと万太郎に質問する。

万太郎はユウガオで、アサガオとヒルガオは施花科だけど、ユウガオは葫蘆科でウリの仲間と答え、正解だと徳永助教授は言い、ユウガオが源氏物語に出てくるから好きで、さらに日本文学が好きだと万太郎に言う。

万太郎は万葉集が好きだと徳永助教授に伝える。

それを聞いた徳永助教授万太郎が植物に熱心であることを理解する。



最初は、槙野万太郎の敵だった徳永助教授ですが、槙野万太郎の植物に対する姿勢を理解し認めるようになっていきます。

徳永助教授が、田邊教授の戸隠草は咲かなかった、植物学教室で実績を出しているのは、槙野に礼をいうべきなのではと、田邊教授に言うシーンもありましたね。

そして、徳永助教授がドイツへ留学している間に・・万太郎が植物学教室出禁に・・・

ドイツから帰国後、田邊教授の非職を受けて、植物学教室の教授になります。


史実では、再び東京大学植物学教室の出入りを許可するのが松村任三です。その後関係が悪化し牧野富太郎博士が再び出禁の危機になります。

ドラマでは、国の神社合祀令で森を壊すことに意を唱える万太郎。

もうこれ以上かばえないという徳永教授に万太郎は辞表を提出します。

「植物学雑誌」というのがあって、これははじめ私共がこしらえて今でも続いているが、その雑誌へ私は日本植物の研究の結果を続々発表していた。これがどうも松村教授の気に入らなかったと見える。なおお話せねばならぬことは、私が専門にしているのは分類学なので、松村氏の専門も矢張り分類学で、つまり同じような事を研究していたのである。それを私は誰だれ憚はばからずドシドシ雑誌に発表したので、どうも松村氏は面白くない、つまり嫉妬であろう

牧野富太郎博士の自伝より引用
・史実:「植物学雑誌」に嫉妬し圧力をかける
・ドラマ:森を壊す神社合祀令に反対するなといいこれいじょうかばえないという


そして、ドラマでは美化され、波多野とともに万太郎の理学博士の学位の推薦します。

徳永名誉教授は「最後まで世話が焼ける」と万太郎の理学博士の記念講演に出席します。




🌸らんまんを本でみるならドラマガイドで

前編↓↓

後編↓↓

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まとめ

松村任三は植物学者として、江戸時代以来の本草学から植物学への橋渡しに大きな貢献をしました。そして、日本における植物学の基礎を築いたのです。自身の助手として牧野富太郎博士を採用したことも、日本におけるその後の植物学の発展に大きく関わるものであったと言えるでしょう。

松村任三の業績は、日本の植物学の発展に多大な影響を与えました。彼の研究や発見は、日本の植物学の基礎を築き、多くの人々に影響を与えました。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

FAQ

松村任三と牧野富太郎はどのような関係にありましたか?

松村任三と牧野富太郎は、日本の植物学界において重要な関係にありました。松村任三が東京帝国大学の主任教授となった際、助手として牧野富太郎博士を採用しました。牧野富太郎は松村任三のもとで研究を行い、後に独自の研究や業績を築いていきます。しかし、両者の間にはやがて意見の相違が生じ、関係は悪化していきました。

松村任三の業績にはどのようなものがありますか?

松村任三の主な業績は以下の通りです:

  1. 日本の植物学の基礎を築いたこと:松村任三は植物の分類や研究方法の確立に尽力し、日本における植物学の基礎を築きました。
  2. 多くの新種の植物の発見:松村任三は約150以上の新種の植物を発見し、学名をつけました。その中には、ソメイヨシノやフジアザミなど、今でも広く知られている植物も含まれています。
  3. 植物学の啓蒙活動:松村任三は講演や著書を通じて植物学の普及に努め、広く一般の人々に植物の魅力や重要性を伝えました。

松村任三が生きた時代の植物学の状況はどうだったのですか?

松村任三が生きた時代の日本では、植物学の研究が本格化しましたが、まだまだ未発展な状況でした。日本人の手による日本の植物の分類や研究が進んでおらず、外国の植物学者によって命名された植物の分類群を理解するのが難しい状況でした。また、標本の収集や文献の不足もあり、独自の学術結果を公表する水準には達していませんでした。このような時代背景の中で、松村任三は日本人の手によって日本の植物学を発展させるために尽力しました。

松村任三が研究した新種の植物はありますか?

松村任三は多くの新種の植物を研究し、学名をつけました。代表的なものとしては、ソメイヨシノ(桜の一品種)、フジアザミなどがあります。これらの新種の植物は、松村任三の研究成果の一環として広く知られています。

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