朝ドラ「らんまん」永守徹モデル池長孟はどんな人か調べました。
日本の歴史には、多くの優れた教育者と熱心な研究者が存在します。
その中でも、池長 孟と牧野富太郎博士の物語は、異なる分野での活動を通じて結ばれた絆と情熱に満ちています。この記事では、彼らの生涯とその功績に焦点を当て、彼らがどのように困難を乗り越え、互いに支え合ったかについて探っていきます。
また、「らんまん」で永守徹の役を演じる中川大志さんも紹介します。
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池長 孟(いけなが はじめ): 教育者と美術品収集家
池長 孟は、1891年の明治24年11月24日に神戸市で誕生しました。彼は旧姓を井上といい、後に叔父の池長通の養子となり、池長姓に改めました。
池長 孟は、身近な人々から「瓦屋のぼん」という愛称で呼ばれていました。しかし、彼の家族は瓦屋を営んでいたわけではなく、それは彼の祖父である吉左エ門の時代(幕末から明治初期)までのことで、瓦屋は明治5年(1872年)に廃業しました。
その後、一家は兵庫県全域に土地を取得し、土地家屋貸し業に転身しました。これにより、地主としての地位を築き上げました。
池永孟の父親である通(とおる)は、神戸市議会の議長まで務めた政治家で、その聡明さから「カミソリ」という愛称で呼ばれていました。
彼は神戸市の上水道整備などのプロジェクトに取り組み、その功績が称賛されました。晩年には教育に情熱を注ぎ、小学校の建設に尽力しました。神戸市で最も歴史ある小学校の講堂が、改修工事の際に取り壊されそうになりましたが、通はその保存を熱心に訴え、結果的に会下山遊園地内に移築されることになりました。この移築費用の大部分は通が負担したと言われています。この古い講堂は「正元館」と名付けられ、通は初代館長に任命されました。
しかし、その後2年後の大正3年(1914年)、通は持病の心臓発作に襲われ、わずか56歳で亡くなってしまいました。この悲劇は、池永孟が24歳の時に起きた出来事でした。
京都帝国大学を卒業した彼は、その後も教育者としての道を進みました。また、彼は美術品収集の情熱も持ち、南蛮美術の収集にも取り組みました。
育英商業学校の校長を務めながら、南蛮美術の収集に情熱を傾けた池永孟は、昭和15年(1940年)に池長美術館を創設しました。
しかし、戦局の悪化から、昭和19年(1944年)に同美術館は閉鎖されました。
戦後の昭和26年(1951年)、戦災を免れた美術館の建物とコレクションを神戸市へ寄贈しました。
この寄贈を受けて設立された市立神戸美術館は後に他の施設と統合され、神戸市立博物館の中心的存在となりました。この美術館の建物は、アールデコ建築として知られ、現在は神戸市文書館として利用されています。
池永孟は、1955年(昭和30年)8月25日亡くなります。
牧野富太郎博士との出会い: 困窮からの脱却
一方、大正5年頃、牧野富太郎博士は植物学者として名を馳せていましたが、若い頃は生活の困窮に直面していました。彼は植物標本の収集を行い、これを海外の研究所に売却することを決意しました。
しかし、この売却には国家的な資料流出の問題も結びついていました。
農学士の渡辺忠吾が『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載。この記事により、大きな反響を呼びました。
当時、京都帝大法科の学生だった池長 孟は、この新聞を見て数万円の援助を牧野富太郎博士に援助しました。
牧野富太郎博士が長年の借金が膨らんで生活費の工面も成り立たないことを知った池長 孟は、毎月金銭面で支援をしました。
南蛮美術の収集と池長美術館の創設
池長 孟は教育者としての一面だけでなく、美術品収集家としても著名です。彼は南蛮美術の収集に情熱を傾け、1940年に池長美術館を開館しました。
しかし、戦局の悪化により美術館は閉鎖を余儀なくされました。戦後の1951年、池長美術館の建物とコレクションを神戸市に寄贈し、市立神戸美術館の基盤を築くこととなりました。
池長孟の家族と親族関係
彼の家族との関係も興味深いものです。3度の結婚を経て、3人の子供をもうけました。
最初の妻・正枝との間に3人の子供を授かりましたが、次男の誕生時に正枝は亡くなりました。
2番目の妻・富子との結婚は短く、離婚となりました。
3番目の妻・とし子との間にも2人の子供が生まれました。また、池長 孟の家族からは、倫理学者として活躍した長男の池長澄や、カトリック大司教を務めた三男の池長潤も輩出しています。
美術と植物: 池長孟と牧野富太郎の交流
池長 孟と牧野富太郎博士の物語は、教育と美術、植物学の異なる分野を繋げた絆が見て取れます。
特に牧野富太郎の植物標本売却の際、池長 孟は経済的支援を行い、彼の困窮を救いました。
池長 孟は父、通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出ました。
感激した牧野富太郎博士はこの申し出を固辞、標本は父:通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は兵庫区会下山にあった「正元館(しょうげんかん)」を大正7年(1918)に池長植物研究所と改称します。
池長 孟から牧野富太郎博士の生活の補助を一部してくれたこともあり、池長 孟は恩人だと終生思いました。
なので、池長 孟から「牧野植物研究所」にしようといわれましたが、牧野富太郎博士から池長 孟に感謝の意を込めて、その研究所に池長の姓を冠した「池長植物研究所」にしました。
この支援により、牧野富太郎は研究を続け、その成果を残すことができました。
ちなみに、「池長植物研究所」に保存されていた標本は、昭和16年(1941)牧野富太郎博士のところへ返還され、現在は東京都立大学標本館に保管されています。
池長孟のモデルになった資産家の青年・永守 徹役:中川 大志
叔父の莫大な資産を継いで資産家となった青年で、万太郎の図鑑発行のために費用を支援したいと申し出ます。
中川 大志プロフィール
- 名前:中川大志(なかがわ たいし)
- 生年月日:1998年6月14日
- 出身地:東京都
- 身長:179cm
- 血液型:B型
- 職業:俳優、モデル、ラジオパーソナリティ
- 所属:スターダストプロモーション
中川大志は、日本の俳優、モデル、ラジオパーソナリティ。2011年に開催された「メンモ公開オーディション」に合格し、同年10月から放送された日本テレビ系ドラマ『家政婦のミタ』で一家の長男役を演じて注目を集めました。その後も多くのドラマや映画に出演しています。また、2021年4月からは初のラジオ冠番組『中川大志のConnected base』がスタートし、ラジオパーソナリティとしても活躍しています。
池長孟のモデル 朝ドラ「らんまん」永守徹役:中川大志さん登場
寿恵子の茶屋「山桃」に早川逸馬と永守家の当主である永守徹と万太郎と寿恵子が集まり、ご窮状は早川先生から伺ったという永守徹。
永守徹は、植物標本10万点の保管と図鑑発刊の為の出版費用を永守家がご支援申し上げたいと万太郎に言います。
伯父の遺志をついだという永守徹は、養子として伯父に引き取られ当主として莫大な資産を受け継ぎしたことを伝えます。
永守徹は、伯父がこの国が世界い引けをとらない文明国を願い尽力し、伯父の遺志と継ぐ責任があり、図鑑に必要なら出版社を標本に必要なら博物館を建てましょうといい、西洋には博物館や美術館があり秀でた美術品を資産家たちが保護し国外の流出を防いでおり、標本の散逸を防ぎたいと万太郎に提案します。
永守徹は、人の命は限りがあるからといい、憂いの無いうちに伯父の遺志を形にしたく陸軍へ行くことなるから、しかるべき金額を陸軍に納めたら一年志願兵として兵役が短く済み将校になる道もあるが、そのようなことにお金を使うより、庭の草花が好きだった伯父が喜ぶことに使いたいという。
永守徹も花咲く庭で誰もが楽しむそんな世が望みだから、万太郎のご支援は私にとって生きた証となりお受けいただけなかと万太郎にお願いします。
永守の申し出に勇気づけられた万太郎は、まことにありがたいお話であるが、生きた証はおっしゃらないでといい、兵隊に行かれるのであれば帰還待ち、永守が戻るまで万太郎は図鑑の準備を進め、標本も散逸しないよう守り抜きますと永守徹に伝えます。
永守徹出演した週タイトル:「ツチトリモチ」の花言葉あらすじは>>>こちら
らんまんモデル日本の植物分類学者の父:牧野富太郎博士とは?
朝ドラ「らんまん」の主人公:槙野万太郎のモデルになった牧野富太郎博士は、当時日本に生息する植物を徹底的に研究し、多くの新種の植物を発見しました。
また、その研究成果をまとめた『新日本植物図鑑』は、日本の植物学に大きな貢献をした書籍として知られています。
牧野富太郎博士については【槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士の父母や妻や子供と経歴は?】をご覧ください。
また、東京で牧野富太郎博士の自宅を「我が植物園」と称して植物を植えましたが、その跡地に練馬区立牧野記念庭園があります。
練馬区立牧野記念庭園については
【朝ドラ「らんまん」牧野富太郎博士の終焉の地!練馬区の牧野記念庭園】
をご覧ください。
牧野富太郎博士の植物学を深堀りしたい方は↓へ
🌸牧野富太郎博士と植物学に迫る
らんまんの予習復習はドラマガイドで❕
前編↓
後編↓
🌸朝ドラ「らんまん」をガイドでみよう!!
まとめ
池長 孟と牧野富太郎博士の物語は、困難な状況に立ち向かい、お互いに支え合う絆を描いています。教育者としての情熱、美術品収集家としての情熱、植物学者としての研究、そして家族との絆。これらが交わることで、彼らの生涯が豊かなものとなったのです。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
FAQs:
Q: 池長 孟と牧野富太郎博士の功績は何ですか?
A: 彼らは異なる分野で活躍しましたが、困難な状況を共に乗り越え、互いに支え合う絆を築きました。池長 孟は教育者と美術品収集家として、牧野富太郎博士は植物学者として知られています。
Q: 池長美術館の歴史はどのようなものでしたか?
A: 池長美術館は1940年に開館し、多くの美術品を収蔵しましたが、戦局の悪化により閉鎖されました。戦後、彼は神戸市立神戸美術館に建物とコレクションを寄贈しました。
Q: 牧野富太郎博士の植物学の研究はどのような影響を持ちましたか?
A: 牧野富太郎博士は植物学の分野で重要な研究を行い、その成果は国内外で高く評価されました。彼の研究は日本の植物学に大きな貢献をしました。
Q: 池長 孟と牧野富太郎博士の絆はどのように深まったのですか?
A: 牧野富太郎博士が植物標本を売る際、池長 孟は彼の研究を経済的に支援しました。この協力により、富太郎は研究を続けることができるようになり、二人の絆が深まりました。
Q: NHK連続テレビ小説朝ドラの「らんまん」永守徹のモチーフになったのは誰ですか?
A:資産家の池長 孟(いけなが はじめ:1891年(明治24年)11月24日ー1955年(昭和30年)8月25日)です。