朝ドラ「らんまん」で要潤さん演じる田邊彰久教授の実在モデルになった、矢田部良吉教授について調べました。
NHK朝の連続テレビ小説らんまんで東京大学植物学教室の植物学者である田邊彰久教授の実在モデルになった、矢田部良吉(やたべ りょうきち)教授を紹介します。
矢田部良吉(やたべ りょうきち)は、明治時代の日本の植物学者と詩人でした。
矢田部良吉は多くの命名を行い、アジサイ科のキレンゲショウマの学名である「Kirengeshoma palmata Yatabe」を命名しました。
この記事では、幕末・明治期の蘭学者であり、日本の植物学の開拓者である矢田部良吉の父母や妻や子供と経歴などの生涯と業績と牧野富太郎博士との関連について詳しく紹介します。
朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎博士やドラマのあらすじを知りたい方は
【槙野万太郎のモデル牧野富太郎博士の父母や妻や子供と経歴は?】
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植物学者と詩人である矢田部良吉の経歴と生い立ちは?
■矢田部良吉の経歴
【没日】 1899年(明治32年)8月7日 – 鎌倉沖で遊泳中に溺れて亡くなる
【出身校】コーネル大学理学士
【経歴】
1869年(明治2年) 開成学校教官になる。
1871年(明治4年) 米国に渡り、翌年コーネル大学で植物学を学ぶ。
1877年(明治10年)東京大学初代植物学教授になる。
1885年(明治18年)羅馬字会を設立
1888年(明治21年)東京高等女学校校長になる。
1889年(明治22年)森有礼逝去に伴い参列
1890年(明治23年)東京高等女学校校長辞職(3月26日辞表提出、6月6日正式に免官)。
1894年(明治27年)免官
1895年(明治28年) 東京高等師範学校教授になる。
1898年(明治31年) 東京高等師範学校校長になる。
矢田部良吉は1851年10月13日(嘉永4年9月19日)に伊豆国韮山(現在の静岡県伊豆の国市)で蘭学者・矢田部卿雲の子として生まれました。
矢田部卿雲は、蘭学に通じた知識人であり、幕府による蘭学の導入を支援していました。幕末の激動の時代に生まれた良吉は、幼少期から蘭学や西洋の学問に触れる機会に恵まれました。
矢田部良吉は、幼少期から学問に興味を持ちました。
しかし、黒船来航後は攘夷派の力が増し、西洋の学問を学ぶことは危険を伴うものでした。
そんな中、矢田部良吉は勇気を持って行動を起こしました。開港直後の横浜で外国人宣教師から英語を学び、その重要性を感じた矢田部良吉は、日本の教育においても英語の重要性を提唱しました。
一説にはジョン万次郎から英語を教えてもらったとの説もあります。
矢田部良吉は、1869年に開成学校の教官となり、その後、1871年には森有礼に随行してアメリカに渡り、翌年にはコーネル大学で植物学を学びました。
コーネル大学では、シダ植物も研究したと言われています。
帰国後の1877年には東京大学の初代植物学教授となり、矢田部良吉はコーネル大学で学んだ植物学の知識を生かし、東京大学での講義や翻訳出版などを通じて、最新の学問を広めることに尽力しました。
特に日本における植物学はまだ発展途上であり、矢田部良吉は植物の標本採集に数十回も出張し、熱心に研究を行いました。ちなみに、講義は英語で行われました。
矢田部良吉教授の標本採集旅行は北海道を含む多くの地域に及び、日本各地の植物を詳細に調査しました。
さらに、毎週日曜日には東京近郊で植物採集を行い、その成果を記録に残しました。良吉の情熱と努力によって、日本の植物学は飛躍的な発展を遂げることとなりました。
また、矢田部良吉は東京高等師範学校の教授および校長も務めました。
矢田部良吉の学術的な功績:新体詩抄とローマ字(羅馬字会)
矢田部良吉は多くの植物の命名を行いましたが、特にアジサイ科のキレンゲショウマについては彼の学名が使われています。キレンゲショウマの学名は「Kirengeshoma palmata Yatabe」となります。彼の研究成果は植物学の分野で高く評価され、その業績は多くの後続の研究者に影響を与えました。
矢田部良吉は植物学のみならず、詩人としても活動しました。1882年には外山正一と井上哲次郎と共に「新体詩抄」という詩集を出版しました。彼の詩は当時の文学界で高く評価され、後の詩人たちにも影響を与えました。
また、1885年(明治18年)にローマ字に関する本を出します。
これが日本で一番古いローマ字に関する本「羅馬字早学び」です。
矢田部良吉の家族について父母や妻や子供は?
彼の父は蘭学者の矢田部卿雲であり、母は沼津藩士の原川氏の出身です。
矢田部良吉には前妻の録子との間に長男の秀吉がおり、後妻の順との間には俊二、達郎、勁吉という三人の息子が生まれました。
朝ドラ「らんまん」で妻:田邊聡子(たなべ さとこ)として中田 青渚さん登場
ドラマの中では、中田 青渚(なかた・せいな)さん演じる田邊聡子(たなべ さとこ)がお茶の水高等女学校卒業後、田邊教授の後妻となったシチュエーションで登場しました。
前妻の2人の子供の面倒をみるが、なついてくれず、前妻は美しくピアノや英語ができるのに聡子が落ち込んで孤立している状況に、寿恵子も学校へ行ったことが無く同世代の人と話すことがないことから、聡子と寿恵子は意気投合して友達になりました。
槙野万太郎と寿恵子夫婦と交流を深めるとあるので楽しみですね。
(万太郎が植物学教室に出禁になった際、どうなるのだろうかと・・・)
・史実:前妻の子は長男の秀吉
・ドラマ:前妻の子は女児2人
矢田部良吉の栄典
矢田部良吉はその学術的な功績により、いくつかの栄典を受けました。
矢田部良吉は1881年に正六位に叙せられ、1885年には従五位に昇進しました。さらに、1891年には勲六等瑞宝章を授与され、1894年には正五位に昇進しました。
矢田部良吉の最後の栄典は1899年に従四位に叙せられたことでした。
トガクシソウ「破門草事件」の経緯
矢田部良吉が東京大学教授であった頃、植物学者で本草学者でもある伊藤篤太郎が在野の研究者として活動していました。伊藤篤太郎は東京大学教授の伊藤圭介の孫であり、東京大学植物学教室に出入りを許されていました。
伊藤篤太郎は、自分の叔父の伊藤謙がトガクシソウを採集し、ロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送った際、新属として発表されたことを知りました。
これに対抗する形で、矢田部良吉もトガクシソウを採集し、マキシモヴィッチに標本を送りました。しかし、マキシモヴィッチは矢田部の学名を公にはしないと回答しました。
この結果、矢田部良吉は怒り、伊藤篤太郎を植物学教室から締め出す処分を行いました。この出来事から、トガクシソウは俗に「破門草」と呼ばれるようになりました。
朝ドラ「らんまん」における戸隠草事件
朝ドラらんまんでは、伊藤篤太郎のモデルになった伊藤孝光が東京大学植物学教室に出入りしていないことから、史実のトガクシソウ事件とはちょっとだけニュアンスを変えて表現されています。
・史実:東京大学植物学教室に出入りを許されたが、戸隠草事件で伊藤が出禁になる
・ドラマ:伊藤は東京大学には出入りせず、泥棒教授と言ったりマキシモビッチ博士をマヌケと見下す
ただし、ユーシーこと田邊教授が発見したことにならず・・・
ケンブリッジ大学に留学中の伊藤孝光が、イギリスの雑誌トガクシソウを新属RANZANIA (ランザニア) T.Ito』として発表しました。
RANZANIAは、旧幕府時代の本草学者 小野蘭山から由来しているものであり、本草学の大家 蘭山の名を冠して伊藤が発表したことで、伊藤家の執念にユーシーこと田邊教授が負けました。
牧野富太郎博士東大出禁後に起きた「国の基(もとい)事件」
アメリカへの留学のきっかけを作ってくれた恩人である森有礼が初代文部大臣に就任すると、森有礼の右腕として、矢田部良吉は文教行政との関わりを深め、1888年(明治21年)東京高等女学校校長になります。
翌年の明治22(1889)年4月 『改進新聞』で矢田部良吉の私生活を揶揄する小説「濁世」が掲載されます。
「濁世」の主要人物は、東京高等女学校校長 矢田部良吉をモデルにし、矢田部良吉の演説など事実をベースに小説を展開することでスキャンルを世間に投じました。
これを受けて、矢田部良吉は『改進新聞』を訴え、明治22(1889)年11月25日に『改進新聞』は、小説「濁世」について謝罪します。
また、矢田部良吉が中心となって立ち上げた女子教育雑誌で、東京高等女学校教頭の能勢栄が主宰する雑誌、『国の基(もとい)』において
- 教育ある女子にして安全なる夫婦併立の生活をと遂げんとする者はいかなる男子に嫁ぐべきか
- 文学士か理学士以外の男性は不適切
という論調を展開したことにより、能勢栄を人選したのも矢田部良吉であるため女学校への批判が高まります。
この経緯があり、明治22(1889)年6月に能勢栄が免職、翌年、明治23(1890)年に矢田部良吉は辞表を提出、東京高等女学校も廃校となります。
矢田部良吉と牧野富太郎博士
牧野富太郎博士が東京帝国大学の植物学教室に出入りできたのは、矢田部良吉のおかげでもありますが、植物学教室から牧野富太郎を追放させたのも矢田部良吉といわれています。
東京帝国大学の植物学教室は当時「青長屋」と呼ばれていました。この教室には松村任三、矢田部良吉、大久保三郎の3人の教授が在籍していました。彼らは牧野富太郎博士を四国の山奥から来た熱心な植物愛好家として知られ、牧野富太郎博士を非常に歓迎してくれました。
牧野富太郎が土佐の植物について話すと、皆興味を持って聞いてくれたようでした。そのため、教室の本を見たり、植物の標本を閲覧したりすることが許され、大変厚遇されました。牧野富太郎が時間があると植物学教室に通い、そのおかげで多くの知識を得ることができたことを牧野富太郎の自叙伝で記されています。
しかし、牧野富太郎博士が1889年にヤマトグサと命名する新種の植物を発見して「植物学雑誌」を発表、さらに1890年にはムジナモを発見し学術論文で発表して世界的に有名になったことにより、牧野富太郎は困難な局面に立たされました。
矢田部良吉から牧野富太郎博士は植物学教室への出入りが禁止されてしまったのです。公には、大学が植物図鑑を発行するため、自由に書物や標本を閲覧することを禁止するという理由でしたが、実際には牧野富太郎博士が東京帝国大学教授である矢田部良吉に相応の経歴を示していないことや、富太郎が大学の蔵書を長期間返却していなかったことが理由の一つとされています。
この出入り禁止により、牧野富太郎博士は研究の基盤を失いました。牧野富太郎は、自身を高く評価してくれる植物学者のつてを頼ってロシアに移住することさえ考えたと言われています。
牧野富太郎博士は出入り禁止後、一旦帰郷して家財整理を行い、地元の植物の研究に取り組んでいました。しかし、知人たちの助力により、1893年に創設された帝国大学農科大学(駒場)で研究を再開する機会を得て、再び東京に戻りました。
さらに、矢田部良吉が東京帝国大学を退任し、松村教授が主任となった後、牧野富太郎は帝国大学理科大学の助手として採用され、一息つくことができました。しかし、富太郎は復帰後も自分の道を進み、大学に対して忖度することなく研究を続けました。助手としての給与は月給15円で、子供が次々に生まれ、実家からの援助も途絶えたため、牧野家は多額の借金に苦しむことになりました。家賃の支払いが滞り、引っ越しを繰り返し、常に借金取りに追われる日々が続きました。
朝ドラらんまん田邊教授と槙野万太郎
2023年6月15日に放送された、朝ドラ「らんまん」の中で、日本で初めて植物学会の学会誌として創刊された植物学雑誌について“偉大ナル田邊會長”と記された部分にフォーカスし、矢田部良吉をフューチャーした田邊教授がニヤリするシーンがあるのですが、もしかしたら、実話の「実際には牧野富太郎博士が東京帝国大学教授である矢田部良吉に相応の経歴を示していないこと」の伏線かもしれませんね。
土佐の佐川から新種の植物かも? と万太郎が植物学教室のみんなに見せようとしたら、田邊教授が制止して、最初に持ってきた植物は最初に私に見せなさいといい・・・・
後日、万太郎が寿恵子と共に結婚祝いだと誰もお呼ばれされたことがない田邊教授宅に行って、万太郎と田邊教授が二人っきりになって今後のことを話すと、田邊教授が万太郎に「私のものになりなさい」と言う・・・
そして、田邊教授専属のプラントハンターになって欲しいという、提案を断った万太郎が土佐から持ってきた新種と思われる植物を誰にも渡したくないと追い打ちをかけるようにいうと、田邊教授は後悔するぞ、虫けらが何を言おうとも私にすがるしかないと万太郎に言います。
ユーシーによる万太郎の植物学教室出禁フラグが完成です・・・あとは時間の問題かと・・
田邊教授は、万太郎を一学者として認めると言い、出禁へつながる行為をネチネチし始めるんでしょうね。
そんなある日、万太郎がムジナモを見つけ、どんな植物かわからず東京大学植物学教室へ持っていくが手持ちの書物でもわからないというと、田邊教授がダーウィンの「Insectivorous Plants」本から「Aldrovanda vesiculosa(アルドロヴァンダ・ヴェシクローサ)」茅槀菜科(いちもちそうか)の多年草の水生植物だと万太郎に助言をする。
出禁フラグがたった田邊教授だが、野宮や徳永助教授から万太郎のことを考え直してほしいといわれたこともあり、ムジナモを論文に書くように指示します。
万太郎が一生懸命論文を書きますが、ムジナモについては事細かにかいてあるが、万太郎だけが発見した内容になっていたことに、納得できず、万太郎の植物学教室の出入り禁止を伝え、万太郎が植物学教室へはいけなくなりました。
・史実:牧野富太郎博士が東京帝国大学教授である矢田部良吉に相応の経歴を示していないことや、富太郎が大学の蔵書を長期間返却していなかった
・ドラマ:ムジナモの新種発表で教授の名前を入れなかった
出禁を言われ、論文を書き直し、雑誌を刷り直した万太郎は、田邊教授の自宅へ行きお許しくださいというが、田邊教授は「二度と来るな」と突き放します。
万太郎が、植物が好きな者同士で話しませんかと声を掛け、植物図鑑を出したいと伝えると、田邊教授は、即興で考えたのか、大学の総力を挙げて「大日本植物図解」という図鑑を作りたいと言い、図鑑で仕事が被るから、万太郎を大学出禁にし、書籍や標本も一切使わせないという。
「刊行を諦め私に尽くすなら考えてもいいがね」が田邊教授が万太郎に最後に声を掛けた一言になります。。。
・史実:日本植物志を出版しようと思うから、西洋でも、一つの仕事ができあがるまでは、他にはみせないのがしきたりだから、自分が仕事をやる間は、お前(=牧野富太郎博士)は教室にきてはいけない
・ドラマ:教授も図鑑「大日本植物図解」を作るから仕事が被る、「刊行を諦め私に尽くすなら考えてもいいがね」といって突き放す
槙野万太郎東大出禁後に卑劣な内容の新聞小説でユーシー危機、ユーシーハウスに野次馬が
東京貴婦人学校の田口校長が大人しくて美人の里江ちゃんに手を出し、学校を中退するという連載小説が新聞に掲載されます。
これが、田邊教授と聡子がモデルになっているのではとピンときた寿恵子は、田邊教授の自宅に行くと、卑劣な内容の新聞小説の影響で田邊教授の自宅の周りには警察が出動するほどやじ馬がいて大騒ぎに・・・投石してガラスが割られるなど大変な事態に。
寿恵子が聡子を助けに行きます。田邊教授の自宅に入っていって、聡子を励ましてあげます。
そんな中、ユーシーこと田邊教授が帰ってきて、
田邊教授は毅然として無教養な連中と、関わるなというと、聡子はそれでも寿恵子は友達だといって、初めて田邊教授の意思に反する発言をしました。
・史実:矢田部良吉の演説など事実をベースに小説を展開
・ドラマ:田邊教授と後妻の聡子との馴れ初めをベースにいかがわしい話として小説にした
「キレンゲショウマ」の新種発表を喜ぶ万太郎に対して田邊教授は大学非職へ
大学へ標本500本と土佐植物目録を寄贈した万太郎は自身の研究に没頭する中、山元虎鉄から送られていた植物に新種と思われる標本があったが新種かを見極める果実がありませんでした。
同時期に、同じ植物の新種特定をしていた田邊教授が果実を入手し新種と認定され「キレンゲショウマ」と名付けます。一歩及ばなかった万太郎だが、田邊教授を心から祝福する万太郎。
さらに、森有礼逝去に伴い後ろ盾を失い、文部省からの辞令で、帝国大学を追放されます。
・史実:数学者で文部大臣にもなる菊池大麓と矢田部良吉との権力争いに負けて追放
・ドラマ:美作教授と兄が総出で田邊教授を追放、文部省からの辞令が決定打
非職の辞令を受けた後、植物学教室の廊下でドイツから帰ってきた、田邊教授を追放したと思われる美作教授と、徳永助教授に会います。
徳永助教授が田邊教授より先に美作教授に会ったことが癪にさわったようでしたが、たまたま会ったとう徳永助教授。
徳永助教授は田邊教授の手をとり、世界を見てきたと報告をする。徳永助教授の手を握り返し、田邊教授は笑顔をみせて、「お帰り」という。
「トガクシソウは咲かなかった」といった徳永助教授に嫌味の一つでも言うのではないかと思いましたが以外な大人対応でした。聡子が田邊教授を変えさせたのかもしれませんね。
植物学教室は徳永が教授となり先導することとなります。
この後、万太郎と田邊は共に力を合わせて植物学に尽力することはないのでしょうね。。
聡子が誕生日に一日だけあなたをくださいと言い、海へ行きたいといったことが田邊が亡くなるフラグがたってしまう・・
非職から海へ行きたいフラグの通り溺れて亡くなる・・
その後、ユーシーこと田邊博士が遊泳中に亡くなることを新聞で知る万太郎・・・・・
後日、聡子が十徳長屋にやってきて、万太郎に田邊からの言伝として一冊の書籍を渡す。
田邊が、槙野に会うことがあったら私の蔵書は槙野に譲る、私の植物学は終わり、この先はMr.makinoに譲るという言伝を聡子が伝える。
田邊がお心に残っているのは槙野だという聡子。田邊が大学から解放され、自由に旅ができると言っており生きようとしており、聡子と子供たちと聡子のお腹の子と生きようとしていたという。
万太郎は謹んで書籍をお受け取りいたしますと聡子にいう。
譲り受けた書籍を読むため、ページをめくるとシダが挟まっていました。。。田邊教授に想いを馳せる万太郎。
万太郎は大学を追放されてから、田邊と力を合わせて植物学に尽力することはありませんでしたが、
田邊の遺志をうけて、植物学の種を撒くと決意する万太郎。
ドラマでは、大学を追放されたものの、田邊教授への感謝は忘れなかった、万太郎。
では、史実の牧野富太郎博士は、矢田部良吉博士のことをどう思っていたのでしょうか。
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らんまん田邊教授実在モデル矢田部良吉の父母や妻や子供と経歴まとめ
NHK朝の連続テレビ小説らんまんで東京大学植物学教室の田邊彰久教授のモデルになった、矢田部良吉(やたべ りょうきち)を紹介しました。
矢田部良吉は明治時代の日本の植物学者であり、多くの命名や学術的な功績を残しました。
矢田部良吉の業績は広く認められ、矢田部良吉の名前は今でも植物学の世界で知られています。
また、彼の家族や栄典、そしてトガクシソウ「破門草事件」についても興味深いエピソードです。
この記事は矢田部良吉の生涯と業績について詳しく紹介しました。彼の植物学への貢献は日本の科学史においても重要な位置を占めており、その功績は後世にも大きな影響を与えました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
よくある質問(FAQ)
Q1: 矢田部良吉の最も重要な業績は何ですか?
矢田部良吉の最も重要な業績は、アジサイ科のキレンゲショウマの学名を命名したことです。彼の命名によって、この植物の正式な学名が確立されました。
Q2: 矢田部良吉の家族について教えてください。
矢田部良吉には前妻の録子との間に長男の秀吉がおり、後妻の順との間には俊二、達郎、勁吉という三人の息子が生まれました。
Q3: 矢田部良吉の栄典は何ですか?
矢田部良吉は、正六位、従五位、勲六等瑞宝章、正五位、従四位の栄典を受けました。
Q4: トガクシソウ「破門草事件」とは何ですか?
トガクシソウ「破門草事件」は、矢田部良吉と伊藤篤太郎の間で起きた植物学上の争いのことです。矢田部がトガクシソウの学名をマキシモヴィッチに鑑定してもらうために送ったところ、学名が公にならず、伊藤が先に発表したため、矢田部が伊藤を締め出す処分を行いました。
Q5: 矢田部良吉の業績は現代にどのような影響を与えていますか?
矢田部良吉の植物学への貢献は現代にも続いています。彼の命名した植物の学名は今でも使われており、彼の研究成果は植物学の分野で重要な基礎知識となっています。
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